レオポルト美術館展という感じで、ウィーン世紀末のいい作品がたくさんあった。
シーレの風景画のエリアだけ撮影可能だった。
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シーレの「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」や「菊」が良かった。特に「菊」は実物をじっくり観ないとよさがわからないと思うけど、素晴らしい。才能というやつだね。
豊田市美術館が所有する肖像画もやはりいいものだった。
オスカー・ココシュカの「ピエタ」、ミケランジェロがみたらなんというだろうか?
さて<悲しみの女>と呼ばれる作品。タイトルは画家自身が付けたものではないらしい。
ワリー・ノイツェルは、1911年から1915年まで、シーレの最も重要なモデルであり、また人生の伴侶だった。シーレは芸術家として初期の成功を遂げるまで、ワリーとスリリングな日々を共にしたが、同時に手痛い挫折も味わった。1914年、中流階級に育ったアデーレとエーディトのハームス姉妹に出会ったシーレは、1915年に妹のエーディトと結婚する。 2023 エゴン・シーレ展図録 P155より
今回の「エゴン・シーレ展」で3つの作品が並べて展示されていた。
「横たわる女」は凄い迫力だった。
「習作からモデルは妻のエディートだが、首から上はすげ替えられている」というようなことが説明書きにあった。そのせいもあってか、右の「縦縞模様のドレスを着て座るエディート・シーレ」のなんとも言えない雰囲気を強く感じられた。
このブログを書くために習作を探し、それらしきものを見つけ、ちょっとその大胆さにびっくりした。
1914年11月、妹のゲルトルーデが友人の画家アントン・ペ シュカと結婚する。 当初、 シーレは嫉妬からこの話を妨害しようと試みたがその努力も虚しく二人は結婚し、1カ月後には息子が生まれた。 この頃からシーレ自身は、アトリエの向かいに住む中流階級のハームス家の姉妹と親しくなり、次第に妹のエーディトと深い仲になった。 社会的良識から判断してワリーは結婚相手にはふさわしくないと考え始めたシーレは、エディートと結婚するため、本意ではなかったが彼女からの強い要求により、ワリーに別れを告げた。 レスラーによれば、なじみのカフェにワリーを呼び寄せたシーレは、関係を断つことが辛かったので、経済的な余裕がないにもかかわらず、毎年の休暇を一緒に過ごすことを彼女に提案した。 当然ながら、ワリーはこの申し出をあっさりと断り、その場を立ち去ったという。シーレと別れた後、従軍看護婦に志願したワリーは、1917年12月ダルマチアの病院で猩紅熱により死去した。 2023 エゴン・シーレ展図録 P279 より
「死と乙女」はベルベデーレ宮殿美術館所蔵。あまり憶えていないが、あそこで見ただろ、といわれれば、見たような気がしてくる。土産の図録を確認したら、「(シーレとワリーの)来たるべき別離への輪郭が描かれています」としっかり掲載されていた。
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死と乙女(Tod und Madchen 1915) |
世紀末ウィーン、第一次世界大戦、スペイン風邪
芸術とエロスより <死の匂いと芸術> を考えさせられた展示会だった。
さて、以下はレオポルト美術館に行きそびれた顛末記。
まだ「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」がベルヴェデーレ宮殿美術館にあった頃、ツアー旅行でウィーンに行った。
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バブルの頃、日本に来た時に観た「クリムトの接吻」もここにあったはずだが、ベルヴェデーレで印象に残った作品は「エゴンシーレの風景画」やセガンティーニの「悪しき母たち」だったと思う。
旅行から帰った後、GoogleのSketchUpで作成した3D空間に飾った絵画はこの2枚だった。この3DデータはUnityに持っていけて、Cluster にも公開できた。
https://cluster.mu/w/a8c634be-0371-4f86-91c6-4f5cacea589c
美術史美術館で買ったブリューゲルのバベルの塔とワルシャワで買った洗礼者ヨハネ |
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